2020年9月30日 (水)

朝の露 Ⅰ歴代誌8章 <ベニヤミン族>

「この人たちは、彼らの家系の一族のかしらであり、おもだった者たちであった。彼らはエルサレムに住んだ。」(Ⅰ歴代誌8:28新改訳)

本章はベニヤミン族の系図について記す。彼らの与えられた領地はエルサレムを含む一帯で、南はユダ族と接し、ソロモン王国が分裂したあともユダ族とともに南王国を形成した。ネヘミヤは捕囚から帰還した人々について、「エルサレムには、ユダ族とベニヤミン族のうちのある者が住んだ」(ネヘミヤ11:4)と記しているから、現在私たちがユダヤ人とよぶ人々にはベニヤミン族も含まれていることがわかる。▼というわけだから、新約時代になるとベニヤミン族から大使徒パウロが出たことは偶然でなく、神の偉大な摂理によるというべきだ。▼族長ヤコブは二人の妻レアとラケルのうち、特にラケルを愛し、ヨセフとベニヤミンを設けた。やがてヨセフ族はマナセとエフライムとなって北王国の中心となり、ベニヤミン族はユダと共に南王国の中心となった。その中からパウロが起こされ、新しい福音を伝える中心になったのである。神のみわざはじつに奇しい。

2020年9月29日 (火)

朝の露 Ⅰ歴代誌7章 <ヌンの子ヨシュア>

「その子はラダン、その子はアミフデ、その子はエリシャマ、その子はヌン、その子はヨシュア。」(Ⅰ歴代誌7:26,27新改訳)

ヌンの子ヨシュアはエフライム族出身で、その祖父エリシャマは一族の頭としてモーセを補佐した人物である。そのためもあったのか、ヨシュアはモーセの従者として選ばれ、いつも行動を共にし、武将としてアマレクとの激戦に勝利をおさめた(出エジプト記17章)。▼カナン偵察部隊の一員としても派遣され、ほかの10人が臆病な報告をしたがカレブと共に信仰ある意見を述べ、積極的に上って行こうと主張した(民数記14章)。こうして彼は神の祝福を受け、約束の地占領軍の指導者として80歳を過ぎてなお大活躍したのである。▼三百年以上前、族長ヤコブはエフライム族が祝され、イスラエル最大の部族になると預言したが、ヨシュアが用いられたことにより、そのとおりになった。その名がギリシャ語ではイエスとなるが、まさに彼は万民を救いに導くイエス・キリストの予表とされたのであった。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2同)

2020年9月28日 (月)

朝の露 Ⅰ歴代誌6章 <エホツァダク>

「エホツァダクは、主がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムを捕囚にしたとき、そこを去った。」(Ⅰ歴代誌6:15新改訳)

エホツァダクはアロンの子孫で大祭司であったが、エルサレム落城のとき捕らえられ、バビロンへ連れて行かれた。つまり、彼の父セラヤはバビロン王に殺された(Ⅱ歴代誌25:18)が、息子は助かり、大祭司の家系は存続することができたのであった。▼神殿が再建されても、アロンの子孫が絶えれば祭司の務めは中止となるから、律法そのものが意味を失うわけで、神は深い摂理のうちにアロンの子孫を保持されたわけである。そして七〇年後、捕囚から聖地に帰還した民の指導者としてエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの名が出て来る(エズラ記3:2、ゼカリヤ3:1)。歴史を支配される神の御手は不思議というしかない。▼現在、エルサレム神殿はないが、アロンの子孫はユダヤ民族の中で、まちがいなく保持され存続しているとみてよいであろう。やがて終末のとき、エルサレム神殿は再建され、そこで再びアロンの子孫が復活することになる。もっとも最後には反キリストが自らを神と宣言し、神殿の中に着座することになるのだが。

 

2020年9月27日 (日)

聖日の朝に <With コロナ>

「だれがこれらを創造したかを見よ。」(イザヤ40:26新改訳)

新型コロナ・ウイルス感染がなかなか収束せず、最近ではアフターコロナより、ウィズコロナという語が使われ出した。つまり、コロナがなくならなので、ウィルスといっしょに生きる世界を考えなければいけなくなった、ということであろう。いつどこで感染するか予想がつかない、との不安を抱きながら暮らす社会は、すべての人に言いようのないストレスを強いるのだから、たいへんな時代が到来したと騒ぐ人々の気持ちも分かる。▼しかし私はここに深い主のみむねが表れているように思えてならない。それはすべての人が神との交わりに生きる、つまり「見えない心の世界」を現実のものとしなければ生きていけない時が来たのではないか、ということである。▼パウロは晩年、福音のため獄につながれ、自由をうばわれた。ふつうなら、狭く劣悪な環境の獄屋と鉄鎖、気が変になってもおかしくなかったであろう。だが彼の心は一切から解き放たれ、最高の豊かさを持った獄中書簡(エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)が記された。心は地上から神がおられる第三の天まで自由に飛翔し、永遠の過去から永遠の未来まで見渡すことができたのであった。◆「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17~19同)

2020年9月26日 (土)

朝の露 マルコ4章 <たねまきのたとえ>

「この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。」(マルコ4:19新改訳)

せっかく信仰をもってキリスト者となったのに、この世に未練があり、ふたたび欲望のとりこになって脱落していく人が大勢いる。主が話された種まきのたとえをそのまま受け取ると、福音を聞いても、救われて最後まで信仰をつらぬく人は四分の一、ということになる。ここで私の証しをすると、57年前のクリスマスに、私は30代のビジネスマンと同じぐらいの女性看護士、計3人で洗礼を受けた(私は20歳ちょうど)。救われた直後は3人とも喜んで教会に通っていたが、現在キリスト者として信仰生活をしているのは、私だけである。どうしてこのような結果になったのかはわからない。ただ、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」との主のおことばが心にひびいている。▼アナニヤとサッピラ夫妻は御霊によって素晴らしい救いにあずかり、持っていた地所を売って代金を教会にささげた(使徒5:111)。しかし途中で少し手元に置きたくなったのだろう、夫婦で相談し、「これで全部です」とペテロに言いながら、じつはいくらかをささげなかったのであった。御聖霊をあざむいた罪のため、ふたりは教会の中で相前後して急死した、とある。せっかくこの世から救い出され、御国に向かって歩み始めたのに、わずかばかりの富に惑わされ、そろって滅びに落ちて行ったとは言葉がない。▼主はここで、「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返された(923)が、謙遜と全き信仰をもって主のおことばを受け入れないと、取返しのつかない結果になることだけは心に固くきざむべきであろう。

 

 

2020年9月25日 (金)

朝の露 マルコ3章 <新しい家族>

「そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。』」(マルコ3:34,35新改訳)

すべて神の御霊に導かれる人は「神の子ども」である(→ローマ8:14)。この世のどんな血縁関係も、「神の御霊に導かれる」ことにより造られる新しい人間関係には及ばない。ところが伝統的日本人にとっては、血縁関係がすべてで、それを無視する人は社会秩序を乱す者と断罪されてしまう。そこに多くの不幸が産み出されてきたことは否定できない。▼ところが主の御在世当時のユダヤ社会もこれと似ていた。だから一般の人々からみれば、イエスは気が狂った者、悪霊につかれた者とみなされた。もちろんそこには、主の人望に対するねたみや反発もあった。▼そこで私たち日本人キリスト者は「はき違えることがないよう」注意する必要がある。つまり、この世の家族や社会の関係を、神により新しく造られた霊的家族関係の上に置かないことである。▼主は母マリアや兄弟たちが主を連れ戻しに来たとき、あえてそれを無視するようにふるまわれた。それはご自分の受肉により、全く新しい永遠の家族関係が出現したことをお示しになるためであった。

 

 

 

2020年9月24日 (木)

朝の露 Ⅰ歴代誌5章 <ルベン、ガド、半マナセ>

「彼らはハガル人、およびエトル、ナフィシュ、ノダブと戦いを交えたが、助けを得てこれらに当たったので、ハガル人およびこれとともにいた者はみな彼らの手に渡された。それは、彼らがその戦いのときに神に叫び求めたからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。」(Ⅰ歴代誌5:19,20新改訳) 

ルベン、ガド、半マナセはヨルダン川東部地域に住んだが、しばしば外敵の攻撃を受けた。ここはアラビア、ユーフラテス地方など広大な東方地域と陸続きだったため、外敵の侵入を受けやすかったからである。もし彼らがほかのイスラエル部族とヨルダン川を渡っていれば、歴史は変わっていたことであろう。しかし彼らはモーセのいうことを聞かず、肥沃な土地に心が惹かれ、ヨルダン川西方に定住したのであった。▼それでも主は彼らが祈ると答えて戦いに勝利を与えられた。ここに記される民族はアブラハムの奴隷女から出た人々で、正妻サラから出たイスラエル民族に強い敵意を抱いていた。従って攻撃は激しいものだったにちがいないが、イスラエル人は主に叫び求め、信仰もって拠り頼んだため、大勝利を得ることができたのである。こうして一時期は、「東はあの大河ユーフラテスから荒野の入り口に及ぶ地に住んだ」()とあるように隆盛をきわめたが、最後は神への信仰を捨て、土地の偶像を慕い、淫行にふけったので、アッシリアに捕囚とされてしまった。ヨルダン川を渡らず、財産保全のために妥協の道を選んだ二部族半は、消えるのも早かった。◆神は信仰者が妥協的な道を歩むことを喜ばない。この世を半分愛し、御国を半分慕うような生き方は決して受け入れられないと肝に銘じるべきである。「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(黙示録3:15,16同)

2020年9月23日 (水)

朝の露 Ⅰ歴代誌4章 <カレブの子孫>

「エフンネの子カレブの子は、イル、エラ、ナアム。エラの子はケナズ。」(Ⅰ歴代誌4:15新改訳)

エフンネの子カレブはモーセがカナン偵察に派遣した斥候の一人で、勇気と信仰に満ちた人であった(民数記13:30)。そのため神の祝福にあずかり、それは子孫にもおよんだ。もともとカレブは族長ユダの子孫である。▼カレブの妻エフラテはフルを生み、フル→サルマ→ベツレヘムと続き、その一族の住んだ町がベツレヘム・エフラテとよばれた。ルツ記に登場するボアズも、その曾孫ダビデもベツレヘム出身である。神は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」(出エジプト記20:6)と仰せられたが、カレブの受けた祝福は一代にとどまらず、広くユダ族に広がったことがわかる。▼そして何よりも、救い主イエス・キリストがヨセフの子としてお生まれになった町がベツレヘムであり、全てのキリスト者の心に刻まれることになったことが最高の祝福であろう。▼信仰を持たなければ神に喜ばれることはできない。反対に私たちが主を愛し、どこまでも信じて従って行くなら、それは子々孫々にまで祝福の川となって流れ、影響を与える。物質の富より、信仰という財を子孫に残したいものである。▼新約の福音とは、カレブが抱いた信仰、否、それにもまさるすばらしい生命的信仰が、イエス・キリストによって私たち異邦人にもたらされた事実を言うのだから。

 

 

2020年9月22日 (火)

朝の露 Ⅰ歴代誌3章 <ヘブロンで生まれた子ら>

「三男はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブサロム。四男はハギテの子アドニヤ。・・・六人の子がヘブロンで生まれた。」(Ⅰ歴代誌3:2~4新改訳)

ダビデはユダ南部の町ヘブロンで七年間王位につき、そのあいだに六人の子どもが生まれた。おそらく彼らは、自分たちこそ父ダビデの後継者であり、次王もこの中から出て当然と考えていたのではなかろうか。その意識をもっとも強く抱いたのがアブサロム(アブシャロム)だったにちがいない。というのも、彼はゲシュル王族の血筋だったからだ。▼後にアムノン殺害事件が発端となり、アブサロムは反乱を起こしたが、そののろしを上げた町が、生まれ育ったヘブロンであった(Ⅱサムエル一五章)。もしかすると、彼に心を寄せる人々がかなりいたのかもしれない。ヘブロン派からすると、ダビデの子とはいっても、エルサレムで人妻バテ・シェバから生まれたソロモンなどが王位につくのは、ゆるせなかったのであろう。しかしこれは、人から出たものではなく、神の選びによるものであった。敬虔な信仰がなければ、王宮は肉的な権力が渦巻く闘争の場と化す。今も昔も変わらない罪の姿である・・・。

 

2020年9月21日 (月)

朝の露 Ⅰ歴代誌2章 <ペレツとゼラフ>

「ユダの嫁タマルは彼にペレツとゼラフを産んだ。ユダの子は全部で五人。」(Ⅰ歴代誌2:4新改訳)

族長ヤコブの子ユダは五人の子をもうけたが、長男と次男は悪徳行為のため神に打たれ、死んだ(創世記三八章)。▼その後、ユダは嫁のタマルによりペレツとゼラフを得たが、ゼラフの家系は悲惨な結末を迎える。つまりゼラフ→ザブディ→カルミ→アカンと続いたのだが、このアカンがエリコ戦で盗みの罪を犯し、それが発覚した結果、一族すべてが殺されてしまった(ヨシュア記7章)。▼一方、ゼラフの兄ペレツの家系は、ペレツ→ヘツロン→ラム→アミナダブ→ナフション→サルマ→ボアズ→オベデ→エッサイ→ダビデと続き、このダビデから救い主が生まれるというすばらしい祝福に預かった(本章9節以下)。おなじユダの子孫でも、片方は呪われ、もう一方は破天荒の祝福に入れられる、ここに神の選びの不思議さがあるといえよう。人間は生まれながら持つ罪のゆえにそのままでは救われないが、神の一方的な恵みはすべてを超えて働き、罪人の頭でさえ聖徒に仕上げ、天に召したもうのである。

 

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