2020年1月28日 (火)

朝の露 ヨシュア記18章 <七部族への割り当て地>

Photo_20200127202701 「部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。」(ヨシュア記18:4新改訳)

カナン占領戦で、すべての部族が勇敢だったわけではない。むしろその反対であった。十二部族のうち、ぐずぐずして戦いに出なかったのは、ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンの七部族で、ヨシュアから急き立てられ、調査に出かけて行き、ようやく全部族への割り当てが終わったのであった。▼本章後半はそのうちのベニヤミン族が割り当てられた地域について記している。彼らが獲得したのはユダとエフライムに挟まれた狭い地域だったが、エルサレムやベテルなど重要な町が含まれている。とはいっても、完全に占領したわけではなく、たとえばエルサレムには原住民のエブス人が生き残るという不徹底なものであった。その感化を受けたのか、次の士師記で彼らは大事件を起こしてしまう。▼七部族のあり方から浮かび上がるのは、不徹底な信仰の従いというものがもたらす悪影響である。神は信仰の父といわれるアブラハムに、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1同)と仰せられた。つまり、信仰の歩みというものは全きが求められるのであって、不徹底な信仰の歩みは受け入れられないということである。人が信仰者であるとは、アブラハムの子という意味だから当然、私たちも歩みにおいて全きを要求される。しかし、それが福音であるとは、全能の神が共におられ、全き歩みを一方的な恵みとして私たちに賜るということにほかならない。自己の努力によらないのである。周囲の状況がいかに困難に見えても、達成不可能に思えても、成してくださる主に期待し、御霊の導きに従って進むのだ。そうすれば必ず道は開かれるにちがいない。なにしろ神ご自身の堅い約束なのだから。「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(エペソ2:10)

 

2020年1月27日 (月)

朝の露 ヨシュア記17章 <ヨセフ族の不平>

Photo_20200126214301 「ヨセフ族はヨシュアに告げた。『あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。』」(ヨシュア記17:14新改訳)

ヨセフ族、つまりエフライム族とマナセ族の合計はユダ族より多く、最大の部族になっていた。これは先祖ヤコブの祝福預言が成就したからである。▼しかし彼らには、ユダ族のような信仰がないことが問題であった。「もっと割り当て地をくれ」という要求の背後には、戦って獲得しようとの信仰が見られない。ユダ族は八〇歳のカレブを先頭に進んで戦いに臨み、強敵を追い払いながら敵地を占領していったのに、ヨセフ族は信仰の勇者ヨシュアを出しながら、部族全体としては軟弱であった。その上、何かにかこつけては難癖をつけ、威嚇するという悪らつさもみられる。たとえばギデオンが多大な犠牲を払ってミディアン人を打ち破ったとき、エフライムの人々は「私たちに呼びかけもせず、勝手に戦いを始めるとはなんたる無礼か」と文句を言い、激しくギデオンを責めた(士師記8章)。つまり、俺たちの顔に泥を塗った、というわけである。またエフタが孤軍奮闘し、アンモン戦に勝利したときも、エフライム人は同じことを言ってエフタを責め、こともあろうに戦いをしかけたのであった(士師記12章)。彼らはエフタやギルアデ人を馬鹿にして戦い、反対に散々打ちのめされた。▼神のために犠牲を払わず、祝福だけが欲しいとの信仰は信仰ではない。イエス・キリストのはかりしれない恵みと救いを頂きながら、ご利益だけに預かろうとするなら、すべてを失う。あのタラントを埋めたしもべのように。

 

2020年1月25日 (土)

朝の露 ヤコブ書5章 <エリヤ>

Photo_20200124213301 「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(ヤコブ5:17新改訳)

これはキリスト者なら、知らない人はひとりもないというほど有名なみことばである。▼なにより励まされるのは、エリヤが私たちとまったく同じ弱さを持つ、ごくふつうの人間だったということではないだろうか。彼は決して超人ではなかった。にもかかわらず、その祈りは答えられ、北イスラエル王国に三年半、一粒の雨も降らなかったとは。しかもアハブ王は「雨が降らないのは、エリヤのせいだ」と怒り、イスラエル全土はもちろん、周辺の国々すべてを捜索し、彼を探し回ったと記されている(Ⅰ列王記18:10)。▼今日のわが国で、人々は教会がささげる祈りの力を、これほどに恐れているだろうか。相手にもしていない、というのが実情であろう。私たちはひざを立て直し、エリヤのように神の御前にひれ伏さなければならない。祈りを聴いて下さる神は、三千年前も今も少しも変わらないお方なのだから。◆しかし何と残念なことであろう。21世紀の教会ほど、祈りの持つ力を正当に示していない存在はない。ペテロが捕らえられ、明日死刑執行という日の夜、教会は「彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(使徒12:5同)◆もちろんその日だけでなく、ペテロが投獄された日から祈祷会は始まったのであろう。その祈りは聞かれ、16名の兵士が厳重に看視する中、彼は二つの衛所と牢獄の正門を通り抜け、救い出されたのであった。そしてペテロを死刑にしようとしたヘロデ王は、まもなく虫に噛まれて頓死してしまったのである。こうして「神のことばはますます盛んになり、広まっていった」(使徒12:24同)とある。当時の教会はいかに力強い祈りを所有していたことか。

2020年1月24日 (金)

朝の露 ヤコブ書4章 <二心の者たち>

Photo_20200123203501 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:8新改訳)

二心とは、神とこの世を共に愛する生き方で、主イエスがきびしく非難されたパリサイ人たちの生き方がそうであった。神の御子が人となって来られたとき、熾烈な迫害を加えたのはこの世ではなく、神に仕えていると自認する人々、すなわち祭司長、学者、パリサイ人たちであった。彼らはイエス・キリストによって宗教的偽善という仮面が引きはがされたので怒り、あわて、これを殺そうと計画し、実行した。むしろそれを見抜いていたのは、ローマ総督ピラトである。「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」(マルコ15:10同)▼信仰者は神と富に同時に仕えることはできない(マタイ6:24)。主がこのように話されたとき、金銭を好むパリサイ人たちは、イエスをあざ笑った(ルカ16:14)。しかし、やがて聖なる神の法廷に立った時、二心で地上を生きた信仰者たちは、永遠の滅びに行くしかなくなる。あのゲッセマネで、暗がりから近づいたイスカリオテ・ユダは、イエスに近づき、「先生、お元気ですか」と口づけしたが、それが合図で人々はイエスを捕らえたのであった。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」(ルカ22:48同)と言われた主のおことばを深く思うべし。世を愛すること、金銭欲に生きること、偽善者としてふるまうこと、これらの根本は一つである。

 

2020年1月23日 (木)

朝の露 ヨシュア記16章

Photo_20200122182901 「そして、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町とそれらの村々がある。」(ヨシュア記16:9新改訳)

マナセとエフライムはヨセフの子だが、ヤコブの子とみなされ、相続地を与えられた。これはヨセフが12部族中で倍の祝福を受けたからである(創世記48:5)。▼後にエフライムは最大の部族になり、ユダとエフライムと言えば、イスラエル全体を指す言葉になった。モーセの後継者としてイスラエルをカナンに導き入れたヨシュアはエフライム出身、また有名なギデオンはマナセ出身である。▼ただ、感心できない面もある。エフライム族は自分たちが大きな勢力であることを意識し、ユダ族とダビデ王家に不平をぶつけ、事あるごとに対抗した。信仰的にもだらしなく、北王国を偶像礼拝に導いた初代の王ヤロブアムはエフライム出身であった。▼士師記の時代、エフタはいのちをかけてアンモン人と戦い、ギルアデの町々を救った(士師記11)が、このときもエフライム族はエフタに「どうして我々に相談せず、勝手に戦ったのか」と文句を言った。真相は逆で、エフタが応援を求めてもエフライム族は助けなかったのだ。それなのに、戦争に加わらず、終わったあとで文句を言うとは、なんと卑怯な態度であろう。こうしてエフタとエフライム族は戦争になり、後者はさんざんに打ち破られたことが士師記12章に記されている。▼族長ヨセフの敬虔にしてあつい信仰は個人的に伝わったが(ヨシュアやエフタ)、部族全体にというわけにはいかなかった。結局、イスラエル12部族の上にヤコブやモーセの祝福預言が成就するのは、イエス・キリストが再臨され、彼らが民族として回心する時であろう。

 

2020年1月22日 (水)

朝の露 ヨシュア記15章 <ユダの割り当て地>

「ユダ部族の諸氏族がくじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南の方のツィンの荒野であった。」(ヨシュア記15:1新改訳)

ユダ部族はいちばん広い領地を獲得した。もちろんこれはくじによったのだが、彼らの信仰による勇気が多くの敵を打ち負かした結果でもあった。▼かつて族長ヤコブはユダについて預言した。「ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。」(創世記49:9)▼カレブに象徴されるように、進撃的信仰をもって先頭に立って進んだのであろう。人口も部族中最大で、カナンの南部一帯を占領し、広すぎたのでシメオン族を共に住まわせるほどであった。この部族から出たイエス・キリストは「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」(黙示録5:5)と言われるお方、真のカナンを獲得占領された獅子の子である。私たちも信仰の勝利者イエスを仰ぎ続け、永遠のカナン入りを果たしたい。

 

2020年1月21日 (火)

朝の露 ヨシュア記14章 <信仰の人カレブ>

「ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。」(ヨシュア記14:10新改訳)

かつてカナンの地を偵察した十二人の斥候のうち、信仰を抱いて主に従ったカレブとヨシュアは生き残り、あとは神にさばかれて死んでしまった(民数記14:37)。▼ヘブル書には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(11:6)とあり、信仰と不信仰のもたらす結果が対照的に語られている。ヘブル11章が信仰者列伝といわれる所以だ。それにしてもカレブが神に対して抱く絶対的信頼は、読む人を深く感動させる。彼が相続地として与えてほしいと言ったヘブロンには最強の巨人族・アナク人がまだ住んでおり、そこをこれから戦って取ろうというのだ。八十五歳の老人が、である。「今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。」(本章11)▼勇敢にして壮んなるかな、信仰の人カレブ。しかし彼の力のみなもとは彼ではない。共におられる主であり、その御方に全面的により頼んでいたからこそ、勇敢であり得たのであった。「そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」(本章12)

 

2020年1月20日 (月)

朝の露 ヨシュア記13章 <未占領の地>

「エジプトの東のシホルから、北は、カナン人のものと見なされているエクロンの国境まで、すなわち、ペリシテ人の五人の領主が支配する、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人の地と、南のアビム人の地。」(ヨシュア記13:3新改訳)

ヨシュアが占領しなかった原住民の一つはペリシテ人であった。彼らの歴史は古く、すでにアブラハムのときにはパレスチナ南西部の海岸沿いに広がり、アブラハムもイサクも彼らと平和を誓い合っている。▼後にサムエルの時代になると、ペリシテ人はイスラエルの強敵になり、以後激しい戦いが続けられた。サウル王は彼らとの戦いで戦死し、ダビデもしばしば苦杯をなめている。▼今日イスラエル共和国が造られたが、隣接するガザ地区との戦闘がくり返されているのを見ると、歴史の再現のようで不思議な感じがする。ヨシュアが聖地を完全占領し、聖絶を達成していれば、ペリシテ人との攻防はなかったわけで、不徹底な占領がもたらした災禍と言えるかもしれない。▼私たちも罪との霊的戦いで不充分な従いに甘んじていれば、やがて後悔することになろう。

 

2020年1月19日 (日)

聖日の朝に <聖絶>

「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。」(申命記7:2新改訳)

旧約聖書、とくに申命記やヨシュア記を読むと、聖絶という神の命令に直面する。聖絶といえば聞こえはよいが、人間に対する聖絶とは、要するに絶滅、皆殺し、完全殺戮である。イスラエルが入って行く約束の地に住んでいた原住民たちは、あまりにも道徳的、倫理的腐敗がはげしかったので、神は彼らを聖絶するようモーセを通してお命じになった。ひとりも残さず、老若男女を問わず、あらゆる者を殺して存在をゼロにしてしまう。まことにすさまじい命令であった。▼もし私がカナン原住民のひとりであったなら、殺される以外に道はないのだから、恐怖にふるえながら殺されて行ったであろう。かつてある人が私に言った。「新約の神は受け入れられるが、旧約の神は信じられない」と。▼しかし、ここで改めて思うべき事実がある。それはイエス・キリストが当時のユダヤ人に「聖絶された」ということである。彼らは心の動機はともあれ、ナザレのイエスを「聖絶しなければならない詛われた瀆神者」と断定し、殺したのであった。この事実が私たちの前に大きく立ちはだかる。つまり、旧約時代における聖絶の思想がなければ、イエス・キリストの死はあり得なかったことになるのだ。▼旧約聖書はむごたらしさと呪いと殺戮にあふれている。どれだけ多くの人々、動物たちが、のろわれたものとなって屠られたことか数えることもできない。流された血が海のように満ちた旧約歴史、だが、それはただ一点、ゴルゴタにおけるイエスの死にすべて帰結する。▼イエスは全世界の罪を負い、聖絶された。イスラエルは、「神にのろわれ、聖絶された者を、なぜ神として信じなければならないのか。絶対にそんなことがあってはならない。」として排除する。これが十字架のつまずきである。しかしやがて全世界が、聖絶したお方が神であられる事実をみつめるときがやって来るであろう。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)▼主イエスが聖絶された事実に心の目が開かれるとき、じつは「私の罪」が聖絶される。というのは、両者がひとつに結び付けられているからだ。そして、まったく新しいいのち、新しい私がキリストと共に出現するのを覚えるのである。

2020年1月18日 (土)

朝の露 ヤコブ書3章 <舌の悪>

「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。」(ヤコブ3:9新改訳)

人間が舌でどんなに罪を犯すかを、ヤコブはここで徹底的に暴露する。▼ペテロは最後の晩餐の席上で、「主よ、あなたのためにいのちをも捨てます」と言いながら、大祭司の家の中庭では、「そんな人は知らない」と呪いをかけて誓った。しかしペテロだけではない、私たちはキリスト者だと言っても、平気で正反対のことを言い、良心のとがめをあまりおぼえずに過ごしている存在なのだ。あのときペテロは、主のおことばを思い出し、門の外に出て泣き崩れた(マルコ14:72)とあるが、私たちは泣き崩れたことがあるだろうか。▼だからヤコブが「罪人たち、・・・嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい」(ヤコブ4:810)と勧めていることに従い、主の血潮が自分の舌にも注がれるよう祈ろうではないか。

 

 

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